私の思うアート
ここ100年ぐらい、アートとは、
アーティストが
「こんなの出来ました!(綺麗でしょ!? 凄くない!?)」
というかたちで、作品をマスオーディエンスに提示、提供するものになっています。
このような環境で、そこに値段が付き、売られているというのがアートマーケットなわけです。
勿論、その間には、ギャラリーやキュレーター、そしてアカデミアンがいて様々な評価や評論を繰り広げるのですが、実はそこにある別の要素、大切であり尚且つ普遍的な「アートの要素」が、もう一つあります。
それは、あまりにも当たり前なことですが、アートを観る、触れる人々の「心」です。
「美しい!」とか「凄い!」と感じる「揺さぶられた心」の存在です。
さて、人々の心の、その「美しい!」「凄い!」という思いは何処からくるのでしょうか。
それは、その人の中にあります。
つまり、心の中に、何かを「美しい!」「凄い!」「綺麗!」と思う反射板の様なものがあって、何かを観た時に、反射して反応する、感情が湧き起こるということです。
ということは、その反射板が、とても「美しく」、「凄く」、そして「綺麗」だということになります。
その反射板、つまりその人の魂が、美しさ、凄さ、綺麗を感知できるということです。
私は、その、それぞれの人の反射板、その美しい魂をを描くことができるのではないかと考えたのです。
それを試みたいのです。
その視覚化を目指しているのです。
子供の頃からずっと
「美しいと思う根源は何か?」
という様なことをずっと考えていました。
小学生のとき通っていた絵画教室の先生と美しさについて話し、茶道裏千家准教授の母と社会の仕組みについて議論し、ニューヨークの大学で映画学を専攻しアカデミックに映画という芸術を学び、紆余曲折があって、人それぞれの顔を描く肖像画ではなく、その魂の美しさを抽象画として描き、見えるものの意味を少しの文章であらわす、という現在のスタイルの絵になっていてます。
「みんなが賛同するマスの美」から「一人ひとりが美しい」「美しいと思う心に光をあてる」というパーソナルなものになっていく時代が始まったのではないでしょうか。
美を「人々へ提供」するのではなく、「個人に提供」することがメインの時代。
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